昭和41年09月28日 夜の御理解
今日、久留米の光橋先生所の、じゃない、石井さん所の、美也子さんの五十日祭がございました。(せんれい)それから、五十日祭と本当にあの、気持ちの良いおかげを頂きました。本当にあの色々分からせて貰い、教えて頂く事がございましたけれども。今日ちょうど、お祭り前に喜代司さんが、色々話しておりますのを聞かせて頂いて、はぁこの人はなるほど、椛目に参ってこんでも、おかげ頂くなぁという事を思ったんですね。
それにその、最近おかげを頂いておることを、ずっと話しておりましたが、あのこの頃から、あの練りゴムですかね、練のゴムの再生をする機械が、大変高いものらしいですね。ですからあの他所の工場に、ずっとその(?)にいきよりました。ところがそのあるところから、ぜひ買うてくれんかと言うので、あの言われたから、まぁそれこそもう馬鹿ほどに安い。大体百万からする機械だそうです。
それを安くしてこの入手しておる。ところがその機械があっても、ほんなら工場がなからなければ出来なかったのが、今度住まい付の工場をあの近所に、だからその誠之助さん達があちらへ行く。工場が全部あちらの方へ移転するらしいです。そのおかげを頂いて。経路と言うかそのタイミングの良さと言うか、もうなるほどここんところを悟らせて貰い。ここんところを思い込ませて頂きゃ、こういうおかげが頂けれるはずだな。そしてあの人柄と言うものがですたい。
もう本当にいわゆるこの方の行は家業の行ぞと仰る。その家業そのものを本当に行としてですね。もう忠実無比ですね。この人の場合は。もう実に見事に、そこんところをやって行きよる。本当にあのおかげ頂くはずだと、という事を、まぁそれだけの事のためには、勿論金銭のお繰り合わせから何から、その置いたものを取っていくように、こうやっておかげ頂いて行きよるんです。それでこの家はもう、私共ととにかくもう母の隠居所のような気持ちでございますとこう言う。
この家もこのまま置いていく。やっぱり建坪五十五坪からあるそうですから、大きなお家なんです。それでですからあの楽になることだろうと、こう思うのですけれども。その話を聞かせて頂きよってから、本当にあのこれなら椛目に参ってこんでん良かと思いますですね。あれだけのこの行をやってのかしていけるという事。ね。同時にそのいわゆる、私の信心と言うものはですね。ある意味においてきっちりとキャッチしておるという事を、今日私は。
だから椛目に本当に、何年通うてきても、何十年通うてきても、ここのところが分からなかったら、おかげは頂かれんと。そして私はいよいよ驚いたことは、今朝の御理解をですね。もうそのままの意味の事をですね、話すんです私に。なるほど結局親先生の信心と、自分の信心は繋がっておる。そら親先生の信心のほんの一部じゃあるけれども、そこだけは僕がしっかりこう頂いておるという事を言うておりましたが。
頂いておるというわけが、それで分かるですもんね。ですからもう本当にもう本当に毎日、毎日日参させて頂きよるもんが、話し聞きよってから、本当に恥ずかしかごたる。そこば頂くたい、ね。という事を言ってらっしゃる。今朝の御理解があの喜び喜びの道が開けると。だから悔やめば悔やんだで、それだけのおかげを受けられんと言うのじゃなくて、悔やめば悔やんだ種を蒔くから、悔やむ花が咲いて、悔やまねばならない様な実が実るという。大変な開きが生まれてくるんだという御理解じゃったですね。
それをあの、喜代司さん、こんなふうに言うんですよ。とにかくあの、先生、いつも言われるように、成り行きを大事にしていくということですね。そしてあ、困ったこ、難儀な事と言うのは、いよい、それ、自分の根肥やしだとこう、も、思いこんどるです。ね。もうどんなに煩わしい事であっても、どんな嫌な事であっても、それはだからこの頃その事によって、自分が根肥しという事をですね、実感するもんですから、そういう困ったことも、感じれるという様な気持ちが、心の中にある。ね。
ですから困ったことが起こってくると、いや神様はこれがまた肥やしを下さってから、有難いという心が起こってくる。だから、もう、本当に、おかげを頂かんならんごと出来とるとです。なるほど、これだったら、おかげ頂ききるはずである。ね。こういう事も言ってました。例えば、じめじめするようなところにはね。ナメクジのようなものが、一人でに出来るようなものだと言いました。ね。ですから、今日の御理解から言うと、じめじめしたような所にはですね。
やはりナメクジのような、気持ちの悪いものが、段々出来るはずなんだ。悔やんだりね。癇癪持ちのところにはやはりもう、本当にもう一生もう癇癪持ちで終わらにゃならんという事。癇癪まわさなければならないようなことが、起こってくるんだということ。ね。本当に天地の中には、そういう働きがあるという事を、はっきり把握している。天地の中にはね、おのずと人間氏子を幸せにせねばおかんと言う働きがある。そういう働きがあるからと言うて、ほんなら雨も降らなきゃ風も吹かんかじゃない。
雨も降るけれども、風も吹くけれども、そういう自分に困ったと言う様な時には、もう必ずそれは根肥しだと。もう完全にこう、私の信心をまぁある意味合いにおいて、受けておるということが分かるでしょうが。だからそこんところを、本当に把握するために、椛目に通ってきよると言うてもいいですもんね。しかもそこんところがこの人の場合、完璧なぐらいに出来て行きよるということですね。私がもう知った範囲内だけでも。ね。はぁもう本当にあの有難いとでしょう、もう話しきるまいめもん。
やっぱ喜代司さん、あんたはいよいよ椛目に参ってこんでも、いいおかげ頂くばいち、私は申しました。ね。ね、椛目にお参りさして頂きよっても、本当にそれがどれほど出来て行きよるじゃろうかとこう思うです。第一ですね。もう御用に忠実であるということが、先ず出来とらんて皆が。ね。同時におかげ頂きゃもう調子の良から、調子の良かごとが、当たり前のごたる、そんな頂き方ではなくて、外にその喜びを持っていけと、困ったことが起こってくりゃ、それが全部自分の根肥しだち言うて頂いていく。
だからもうここにきわまる。だからこの頃椛目にお参りせんでも、いっちょん引っかかりませんとこう言う。ね。あぁした御造営がありよりますけれども、御造営に一つも寄与しません。いわば言うたりして自分なお供えも致しません。けれども先生一つも引っかかりませんとこう言う。まぁ実感なんですかね。そんな人なんですよ喜代司さんて。ですからそれが言うとる事がですね、神が預かっとる気がいっちょんせん。その話を聞きよってから。今日も昼ちょうどお昼頃でした迎えに来たのが。
それでもう食事して行こうち言うてから。なら喜代司さんと頂いて行きなさいて。僕はうちに帰ってと言いよったけど。まぁうち帰ったっちゃどうせ頂かんならんけん、頂きなさいち言うちから一緒に頂いた。それがそのまぁ何も株焼きにおつゆぐらいの事じゃったけん、もうご飯なもう私もあの、糖尿病のご飯ですけん、もう麦ばっかりの様なご飯じゃった。それであのもうそれこそお粗末なもんで、すまんばってんからちょいと良かたい、まぁ頂なさい。そしたらその喜代司さんが言う事ですたい。
僕はあのお粗末なものが、一番好いとりますち。はっはもうこれが他んもんが言うなら、どうしたものの言いようの、分からん奴っじゃろかと、思いますよのうや。私がお粗末なもんちゃ自分が、お粗末なもんが好いとりますち言うて、言うですから。それが本当にそれが、私が言うて笑ったら、本当じゃろがお母さん、僕はもうほんなごて塩だけで、栄養失調にならんなら、塩だけでん良か。それのほうが好いとると、私は金が残るから。そげな人です。ね。
それが栄養失調になるけん、たまにゃ肉も食べりゃ、お魚も食べるちいう事。僕はお粗末なものば好いとる。もう本当それをそれば聞いとってですね、本当に面白過去と言う人だと言うだけでですね。どうしてこの人はもの言い道知らんじゃろうかと思わんです。喜代司さんの場合は。そういう人柄を持ってる訳ですね。だからもう銀行なんかでも、喜代司さんちゃ、あぁ言う人だというので、今日も自動車の中で話よりましたがですね。もう本当にたまがる様に、お金でも使うてくれ使うてくれと言うそうです。
あの人の人柄と言うものを知ってる訳です。しかも一軒の銀行じゃない、この銀行からもあの銀行からも、そう言うてくれるとこう言う。今度の家を買うたでも、やっぱり借りて買うとるけれども、そう言う様なそのおかげを、お繰り合わせを頂いていると、こう言うのですよ。ね。はぁ本当に椛目にもう一生懸命通うて来てから、ここんところは本当に、自分のものにする為に参る。もうそうすりゃ椛目に参って来る事は要らん。私は本当にそう思いましたですね。本当要らんですよ。おかげ頂くだけなら。ね。
それで私その事を、神様にお礼申させて貰いよりましたとよ。本当私の信心のいわばおかげ頂くコツと言うものは、完全にキャッチしてです。そして貰うてしもうてです。そしてもう自分でも独立しとるち言う様な感じです。私はそれで良いですもん本当。ね。ところがその神様の、あの私のお知らせの中にですね。そのこれはねちょうど、機関車の頭だけが、レールのところを通っているようなもんだと仰いましたね。ね。やはりあの機関車には、沢山の客車を引っ張って。
そしてレールの上を走って行くという、この天地に繋がる大道と言うか、レールと言うものを教祖の神様が、作っておって下さる。そこをいわば辿っていくと言う様な事でなからなければ、しかしこれから本当のことは生まれない。だからここも段々、言わんでも分かるだろうという風に、私は思いました。ね。そしてあの思うんですよ。ね。だからその信仰的感激と言った様なものは、だから無いですね。もうただほんないうなら、きぃたないそのおかげの頂くこつを覚えたちだけであります。ね。
それがおかげ下さいおかげ下さいと言った様な、汚いおかげじゃないです。もうこげな風になりゃ、しゃっち神様は下さらにゃんごつなっとると、こういう訳です。またそうです、ね。忠実に家業の行を疎かにせずに、一生懸命にさせてもらうと。そして起きて来る事を、一切有難く受けさせて頂いて、そして嫌だ困った。人がもう嫌だちいうごたる時には帰ってうち下さい、その肥しはちいうごたる風で、受けて行きよるわけです。そうすら必ず豊かに大きくなると、こう確信しておるです。ね。
ですからもうそうして、だからあらもうおかげ頂くに違いないです。ね。けども信仰的感情と言うようなものは生まれてこない。ね。例えていうならば、あそこの家内の薫さんがです、ね。まぁだ娘時代に、あのお花のなんか県展か何かに出すのに、お伺いに来ました。したら自然の山のものを取ってから、あの出品したが良かろうと言う事であったから、あの大橋の裏の山に登ったんです。鋏を持って。そしてその薫さんが見るところですたいね。いわば藪の中に立ってから思うことですたい。ね。
もうあの枯れ枝もこの木もです。まぁ木の葉でも、みんな花にならんもんはないと思うたらしいですね。お花の稽古をさせて貰うと何もかにも、お花の材料にならんもんは無いという訳なんです。ね。そりきんあれもお花の材料になる、これもお花の材料になると思うたら、もう切りようが無いわけです。もうどれもこれも切ろうごたる。そしたらです。はさみを持ったままあの感激して、あの藪の中で泣いたという事を、青年会の時、来てまぁだ、嫁に行く前にですね発表したことがある。
私はもう私は何時もこの人に会う時にゃあんた、ここんとこばいち。もうどげな要らんもんのごたると、思うような事でも、どげな難儀と思うようなことの中でも、それを生かす道を覚えていかんのと言うた。信心はそればいち。ね。そこにはね、天地の親神様がです、無駄なものがあろう筈がない。雨であろうが風であろうが、それを例えばあれも生かされる、これも生かされるとこう思う心が、天地が感動ましまさない筈がない。その感動が、薫さんの心の中に、ね。
感激となって現れてきた。感動となって現れてきた。そういう例えば、喜びに浸るという事は出来ませんですね。喜代司さんの生き方では。ただそういう様なものを、根肥しにすりゃ、自分が太くなれれるという事だけは、確信が出来る。だから、それとこれとが、一つになるために、どうしても、軌道に乗ったです、ね。信心をさせて貰うと。おかげを受けなければならんという事が分かります。
どうでも一つ皆さん、もう本当に椛目におかげ頂くなら、ここんところをそうだと思い込ませて頂く信心になる以外にないです。ね。信仰的喜びを頂かせて頂きながら、それこそ家にはじっとしちゃおられんと言うのが、お参りになって来ると言う事なんです。ね。この神恩報謝の生活の、その心がです、ね。家にはじっとしておられん。金光様が朝から晩まであぁして御用をしておって下さるんだ。そういう事を思うたら、家にはじっとしておられんと言うのが一つの感動になって、お参りになるという様な信心。
そこにはおのずと天地が感動ましますような喜びが、いわゆる喜びの本当の生活が出来る、信心生活が。同時に喜代司さんが言うておりますように、ね。例えば困った事だ難儀な事だという事は、全部自分のこれは根肥しになるんだと、確信しておる。又大概な(おなつ)の困ったことやら、腹ん立つことやらは、もうそれこそ受けたくない。だから痩せ細ってしもうて行くわけなんです。肥料を施さんから、ね。だからそこを通り抜けただけじゃいかんのです。
雨やら風やらがあっただけじゃいかん。それを肥料にしなければです。肥料にはならんです。雨があったからと言うて、肥料になるかと言うとそうじゃないです。難儀を通り越えたからというて、それが徳の元にはなりはせんです。もうそれを肥料として、有難く受けるところに、おかげが頂かれるのです。ね。そういう信心を体得させて頂いて、片一方に、そうした信仰的感動の日常生活というものを、限りなく繰り返させて頂くというところに、いよいよ私はおかげが受けられる。
心の上に頂けれる、形の上にもこれは絶対のもの。ね。だからその喜代司さんが言うんですよ。損することもあると。ね。またその死ぬる様な事もあると。あちらの兄弟の介抱するしこしてから亡くなった。ね。だからその悲しいことだけれども、それが僕の根肥しに頂いたとこう言うのです。ね。そしたらあの亡くなってからこっちの事ですよ、ね。さぁまた工場を一軒家を一軒、して兄弟は今度いよいよ、別れることが出来るようになったのです。しかもそれが実にタイミング良く。
欲しいと思うとった機械も、向こうから買うてくれという様なおかげを頂くです。さぁこげな風で機械を買うても、そればってんその据え場が無いといや、ちゃっとそのそれを据えさせて頂く。野口つぁんの主人がですね、勤めておった会社の家ですから、大きな立派なお家に違いはありませんですね。今度新築してからお届けになった。そこんところを、野口つぁんの教えで今度は変わってきた。ね。
ですからお互いがおかげも頂きたい、ね。ならどうでも、ただお取次ぎを頂いて、お願いをしておかげ頂くという様なのじゃなくてです。もう喜代司さんが言う、こう言う心の状態なら、絶対もう自然とです、じめじめしとるとこには、黙っとったっちゃナメクジのようなものが出来る様にです。ね。有難いこちらが状態なら、もう有難いものがそこに必ず、おのずと生まれるものだという事をです。
また事実そうですという事を確信しています。だからその場というものを、いよいよ豊かに大きくしていくためには、様々なやっぱ根肥しが要る。その根肥しをだから根肥し、いわば難儀な事困ったこと大歓迎ちいうごたる風で、そこへ肥しにしていくもんですから、いよいよおかげを頂いていかん筈はない。もう椛目で信心の稽古させてもらい、体得するというのはここを体得していく以外は無いですね。
どうぞ。